2012年7月24日火曜日

家猫は今日も窓から世界を眺める

家を出たいと初めて思ったのは、友達に恋人が出来たとき。
ただなんとなく、ただ流れるように、側に居てくれるのよ。と、頬を染めてはにかんだように言った彼女を見て、この子はこんなにも綺麗だったかしらと心の中では失礼な事を考えていた。
小首をかしげながら、彼にもらったものよ、とテーブルに置かれた其れは、何処にでもありふれたテディベアのキーホルダで、彼の誕生日カラーらしい。
私からすれば、それ以上でも以下でもない、なにが彼女をこんなにしたのか分かりそうにもなかった。
太陽の光が反射して彼女のアイシャドウがとても綺麗に思えた。
(別段気になることではないのかもしれないけど、彼女がきれいになったことは事実だわ。)

私は、箱から黒い鞄ひとつで飛び出すことにした。
父の猛反対に胸を痛ませたけど、私はこの家にいるといつまで経っても恋が出来ないことを知っていた。
(知ってるもの。父上の書斎に山積みにされたものが。そしてそれらには大きな×を事細かに全てに付けられているということも。そしてその中に挟まれた写真が、酷くガッカリした顔に見えてしまったのは、私とお付き合いできないからではないということも。)

私は安い南向きのマンションを借りた。
ワンルーム12畳、ダイニング付きキッチン、トイレバス別。
キッチンは狭いし、シューズボックスも無い。
こんな狭い部屋だけど、クローゼットが3つ付いているのはここだけだった。
だけどひとつだけ、それなりに大きな出窓から見える夜の色に染まるその瞬間の空に、いつも決まって菖蒲色の空に一筋の飛行機雲が走るのが、とても好きだった。

ネオンが煌めき車のクラクションが響き、ノルマのポケットティッシュを必死に減らそうと頑張る女子大生の声と、30も年の差がある男性を色気で惑わせ誘い込む声に慣れ始めたとき、行き着けになったバーで私は体に悪そうな青白く発光するカクテルを喉に流してた。
そしてそのカクテルが底をつく前に、見知らぬ男に手を引かれていた。
気安く話しかけてきた彼は、私の顔を見るなり左手の薬指に光っていたシルバーのリングを外すと、鞄の奥底へ仕舞い込んだのを私は見ないフリをした。

気がついたら真っ白のシーツに皺をよらせて、ひどく汚い姿で私は目を醒ました。
(痛かった。)
何処が?と聞かれても、明確な答えなんて出ないけれど、確かに、酷く痛んだ。
ライターが火花を散らし私の嫌いなにおいが充満し始め、煙が目に沁みてほんの少しだけ、涙が流れた。

わたしはなんとなくその人を招き入れ、12畳の部屋を「結構広いじゃん」といった彼を冷めた目で見つめて、どちらからともなく唇を合わせた。
ただなんとなく、ただ流れるように側にいたのに、私を包むのは虚しさだけだった。

彼は何処かに私を連れていくこともなく、なにか話す訳でもなく、ただ私の部屋に幾日も居座っただけだった。
「今日は何時に帰ってくるの?」
何の色も味もない、昨日送ったメールをそのまままた彼の宛先に送る毎日だった。
(決まって飛行機雲が空を走る時、同じ時間だった。)
たった一通のメールが送信ボックスを埋め尽くしていたというのに、ある日を境にぱったりと彼は来なくなった。
その時思った事は、私は別に彼の帰りを待っていた訳でもなく、そして会いたい訳でも傍にいてほしいわけでもなかったのだ。
居なくなった彼を私は追うこともせず、机に放置された合鍵をなんの戸惑いもなくゴミ箱に捨てたのだ。

あの子から電話があったものだから、前と同じ場所の喫茶店で同じ席に同じ時間会いにいった。
それだというのに彼女はあの時の輝きなんて微塵も残さないまま、ただ酷くやつれていた。
彼女は腫れた目蓋を恥ずかしいなぁ、なんて掌で隠しながら、鼻声でフラれちゃったの。と言った。
自分の誕生日の色らしいテディベアのキーホルダーには鍵が付いていて、それが私と同じだと分かるとゴミ箱に投げ捨てたい気持ちになった。
かっこわるいなぁ、いつまでも忘れられないの。そう言ってそっと笑う彼女が、前よりも大人っぽく見えた。
「続かないって、なんとなく分かってた。でも、私初めてだったのよ?」
その初めてが恋なのか、恋人がなのか、キスなのかセックスなのか。
多くを語らないけど、ただ特別だったのがわかった。
(私なんて、もう相手の名前、顔ですら思い出せないというのに。)
「元気出して。ほら、お洒落でもして買い物いこう?前につけていたきらきらのアイシャドウ、あなたにぴったりだったわ。」
私が伝票を持って立ち上がると、カラメル色の瞳が私を捉えた。
「私、アイシャドウなんて、つけたことないよ?」


南向きのこの部屋が広く感じるようになった。
それは2人でいる空間を知ったから。
そして煙草の吸い方を知り、人がどうして美しくなるのかを知った。
そしてあれだけ綺麗に思えていた飛行機雲が、それほど綺麗なものではないと気づいたとき、私は大声をあげて泣いた。
所詮、私も飛行機雲も、同じだったのだ。
フィルターギリギリまで吸った煙草を友達から預かったテディベアの胸についたハートにじゅうと押し付けた。
私が得たものは結局セブンスターの美味しさとセックスの痛みだけだったのだ。




家猫は今日も窓から世界を眺める